告白







はじめにこの場所を作ったときは過去に、私を追い詰めてきたことを文章にして葬ろうと思った。
でも、それはあまりにつらい作業で遂に実現しなかった。
また、出来る時に書こう。
なんて言ってると、きっとまた出来ないんだろうけどね。
だから、最近のことをとりあえず言葉にしよう。
ここは「過去の倉庫」







<壊れたアンドロイド>
-2007年4月の死-

2007年4月17日の深夜。
私はネットラジオを放送していた。
これについては全く記憶が無い。
ただ、自動録音されていたので、後から聞いてみてわかったことだ。
私は、その放送をしている間中、ずっと眠剤を飲み続けていて、
その放送には、がさごそパリパリみたいな音が入っていて、薬をばらしているのが丸分かり。
聞いていた人は、さぞ不気味だったろうな。
スカイプで、リスナーさんとも話していたのだが、
いきなり「あなたはメンヘラですか?」と聞いたり、意味わからない。

放送が終わった後、私は更に眠剤を飲んで、廊下に倒れていたらしい。
眠剤は多分400錠は飲んでいたと思う。
放送を隣の部屋で聞いていた彼氏が発見してくれた。

彼は迷っただろう。
このまま私を逝かせてやったほうが幸せなのか、それとも病院に運んだほうがいいのか、と。
結局、彼は私を生かす道を選んだ。
深夜だったけれど、母を起こし、救急車を呼んだのだ。

それは全部聞いた話。
救急車を呼んだのはいいけど、搬送先が見つからずに、一時間半は放置されていたという。
その間にも薬は私の胃に溶けてしまった。
近くの市立病院が空きが出たというので、そこへ運び込まれた。

警察も来て、30分くらい尋問もされたらしい。
私はその後10日間ほど、意識不明だった。
最初は、医師は三日くらいで目が覚めるでしょうなんて言ってたらしい。
なのに、私は三日経っても五日経っても、起きる気配はなかった。
幼馴染ーズが見舞いに来てくれたときも、目を覚まさなかった。
彼氏は毎日毎日、目を覚まさない私の見舞いに一日に二度の面会時間に来てくれていたそうだ。
毎日毎日。毎日毎日。
なんて長い日々だったことだろうか。

私のほうでも、それは長すぎる時間だった。
私はずっと覚めない悪夢を見続けていた。
精神病院に閉じ込められて、ずっと責めたてられていた夢。
小さい小部屋に閉じ込められて、監視カメラがあった。
私は口が利けない。
誰にも「助けて」と言えない状況だった。
ある日は、私は家族に黙って、精神病院のに薬をもらいに行っていた。
そこで、薬を飲んで体験する悪夢。
悪夢の中で見る悪夢。
そして、私は彼を裏切って、他の男性に浮気をしてしまう夢もあった。
もう何処までが一個の悪夢で、何処までが違う悪夢なのか全然わからなかった。

ある日、ポカリと目を覚ましたという。
医者は、このまま植物人間になるかもしれないと言っていたらしい。
目を覚ましたときの記憶はない。
私は泣いていたという。

私の記憶は、ある日周りを見回したら、母がいない。
どうして母がいないのか、私にはわからなくて、寂しくて、一人なのが心細くて泣いていた。
そして、母が本当に来てくれたとき、一緒に彼氏がいてくれたことにも安心して泣いた。
次に記憶があるのは、親友Tが来てくれていて、
彼氏と二人、私の両側にいて、手を握ってくれていたこと。
私は酸素マスクをしていたから、私の言っていることは、全然伝わらなかったようだった。
私はその時、白昼夢を見ていた。
今、自力で起き上がって、何かのボタンを押すことが出来たら、この病院から解放される、という夢。
私は、一生懸命起き上がろうとした。
彼氏とTは、「起きなくていい」と宥めていたような。
そして、白昼夢の中では、私は無事ボタンを押せた。
私は帰れる!と思い込んだ。
なので、じゃあねと言われて、びっくりした。
なんで私を連れて行ってくれないの?
このまま起き上がって、歩いていって、いつものようにファミレスで御飯食べようよ!

私は全然わかっていなかった。
10日間ほど、眠っていた間に、私は壊れたアンドロイド人形のように
手足が固まって、自分では起きることも歩くことも、何事も一人では出来なかったんだ。

それから地獄のような日々が始まった。
毎日、私を苛む悪夢の連続。
そして、少しずつ起きられるようになってからの、ナースさんの質問。
今は何処にいるかわかるか?
名前はなんだ?
生年月日はいつか?
私はどれにもうまく答えられなかった。
私は、混乱していて、自分の名前さえ、わからなかったのだ。
私は自分が精神病院に入院しているとばかり思い込んでいて、
毎回、間違えて、ナースさんに冷たい目で見られた。
自殺を図った私にナースさんは冷たかった。
自分の命を粗末にする私なんて、早く退院しちゃえばいいのに、早く精神病院でも何処でも行けばいいのに、という顔ばかり。
しかもこの病院に担ぎ込まれたのは、一回や二回ではない。
常連なのであった。
御飯を食べれるようになって、毎回スプーンで御粥をすくうことさえ出来ないのだ。
私はその重さにも耐えられないほど、衰弱していたのだ。
夕御飯のときは、ちょうど夕方の面会時間だったので、
母と彼氏に手伝ってもらいながら、食べていた。
魚の身をほぐすのさえ、私には高い高い壁だったのだ。
朝ご飯や昼御飯のとき、どんなにお腹が空いていても、私には食べられない。
スプーンを持ったまま、空腹を抱えて、途方にくれていた。
たまに、呆然と食事を見ていると、優しいナースさんが手伝ってくれた。
でも、その他のナースさんは一様に無関心だった。

母が、ナースさんに「娘をお風呂に入れてやってください」と頼み込んでくれた。
やっとトイレに行けるようになった日に、お風呂に入れてもらった。
私は不安で、ビクビクしてたけど、髪はナースさんが洗ってくれた。
体は自分で洗いなさいと言われた。
私は、まだ排泄のタイミングが図れなくて、うんこをオムツにもらしていた。
もう恥ずかしいとかそういう感覚さえなくなっていた。
ただ情けないと思っただけだった。

御飯を食べるのが恐怖になっていて、御飯を前にして、動けなくてじっとしていて、汗をダラダラながしていたら
一人のナースさんが気付いて、様子がおかしいとのことで、
市立病院の精神科の先生を呼んでくれた。
でも、私は、その先生の言っていること、一割もわからなかった。
朝の医師の面談回りも、恐怖の時間だった。
私は、ずっと口から管をつけられていたらしく、声を出すことが出来なくなっていたのだ。
それに、不親切なナースさんのせいで、緊張の連続だったので、
手も足も、ブルブル震えていて、医師が「なんで震えてんの?」とか聞かれても、
10人くらいの医師に囲まれて、ナースさんも覗き込んでいて、声も出ないのに、説明も出来やしない。

壊れたアンドロイド。
そこに魂を入れてくれたのは、彼氏と母だった。
彼氏は毎日、私のために音楽を聞かせてくれたりした。
私の好きなラルクアンシエルの新曲を聞かせてくれたりした。
食欲のない私のために、ヨーグルトを持ってきてくれた。
起き上がれない私を、起こして食べさせてくれた。
カスカスの声で、「タバコ吸いたい」と言った私を、外に連れ出して、タバコを隠れて吸わせてくれたりした。

やっと解放の日が来た。
それは突然やってきた。
2007年のゴールデンウィークの真ん中の日。
夕御飯のカレーを悪戦苦闘しながら、食べていたら
副担当の女の先生が、「もう明日退院していいですよ」と言いに来たのだ。
は?という顔になってしまった。
突然の釈放宣言。
まだ手足もうまく使えない私だったけれど、
後は、そちらの通っている精神病院に行ってくださいと言われた。
お荷物の患者を早く放り出したい、という感じ。
それでも、私は大歓迎。
こんな地獄の底みたいな場所ではなく、自分の部屋に戻りたかった。
早く早く。
私は私に戻りたかった。
壊れたアンドロイドではなく、人間に戻りたかった。

退院の日。
自分で服も一人では着られなくて、母にやってもらった。
車椅子で、出口まで連れて行ってもらって、車で帰った。
ファミレスに行って、デザートを食べた。
うん、人間みたいだ。
私の部屋に帰って、パジャマに着替えてベッドに寝転んだ。
まだまだ手足がガタガタ震えていた。
会社が休みで、家で飲んでいた父が出てきて。「お帰り。酷い目にあったね」と言ってくれた。
ああ、本当だ。
自分でしたことなのに、何一つ思い出せなくて、「酷い目」にあったという感覚だけがあった。

私は何に絶望して、自殺を図ったのか、全く思い出せない。
でも、その頃の日記を読んでみると、何かに苦しんでいた。
精神病院の先生は、「心配させて〜!!」と言って、頭突きをかましてくれた。
どうして?なぜ?
今でもわからない。
私は一体のアンドロイド。
いつでも何処かしら、何本か螺子が飛んでいるアンドロイド。
本当に人間になれる日は、いつか来るのだろうか。

















<呪いの黒い髪>

私は髪を伸ばし続けていた。
ある人物との決別以来ずっと。
髪が伸びるごとに、その人物への憎悪と愛を確かめていた。
私は彼を待ち続けていた。
奇跡が起こって、彼と再会することが出来たとき
この髪の長さが、あなたが私を置き去りにした年月だと証明するために。
私は飽きっぽくて衝動的な人間なので
その髪をいきなり金髪に染めたりしていたために
髪は痛みきっていた。
髪の感触はザラザラのバサバサで、とても女の子の髪質ではなかった。
それでも伸ばし続けていた。
ただただ、たった一人の男のために。
私が愛した唯一の男のために。
愛と呪いを込めて伸ばしてきた。

そしてそれは私が壊れきった年月の証でもあった。
いつか私が正常になったとき。
いつの日か私が「シアワセ」になったとき。
切ろうと思っていた。
この長く苦しい日々に決別をつけるために。

男は戻ってきた。
それは正に奇跡だった。
私は、ただただその瞬間のためだけに生きてきたのだと思えた。
もう何もかも捨ててもいい。
彼ともう一度やり直せるのならば。
しかし、男は二度にわたり、再び私を裏切った。

それでも私は今でも待っている。
いつか男が戻ってくるのを。
心の奥底でずっとずっと待っている。
その呪縛は一生断ち切れないだろう。

しかし、私は髪を切った。
何かを決心したわけではない。
男を待つのをやめたわけでもない。
新しいシアワセをつかもうと思ったわけでもない。
呪うのをやめたわけでもない。
自分が変わろうと思ったわけでもない。


私が狂気炸裂して右手に怪我を負ったので
長い髪を洗うのに不便だから、切ったのだ。
他人に対して正気でなかったにしろ、一度でも刃を向けたことに対する罰だ。
リストカットするかわりに、髪をカットしたのだ。

髪を切ったくらいで人間変わったりするものではない。

私の呪いはまだ続くだろう。
でも、それは男に対するものなのか、我が身に対するものなのか、過去に対するものなのか、
今の私にはわからない。




















<幽霊>
-2003年4月の死-

私はプロフィールにも書いてあるように4回自殺を図っている。
その時は本気で死の世界に旅立つつもりだったので、「自殺未遂をした」とは言いたくはない。

このページの一番下にも書いたが、2002年8月には、ここにも遺書を置いて死んだはずだった。
しかし生還し、4ヶ月間精神病院に入れられ、もう2度とそんなことはしないと誓った。
なのに、また裏切った。
私ってそういう生き物。
裏切る性質なのだ。

精神病院を退院して、しばらくは「これからは生きていける」と思っていた。
入院仲間達との楽しかった日々もあったし、両親の支えもあったし、遠くから応援してくれる人もいたし、
幼馴染達は、いつでも待っていてくれたし、彼女達をまた裏切るわけにはいかない。

でも、退院してたった3ヶ月で私はまたもや闇に嵌り死神に魅入られた。
冬に退院して、春の陽気に狂わされ、私自身の弱さ故にまたしても死に捕まったのだ。
私は口を利かなくなり、布団から出なくなり、誰にも会わずにいた。
通院もしなくなり、母が無理矢理連れてった。
その場で入院が決まった。

ハッハ!
たった3ヶ月しか持たなかった。
あの4ヶ月の入院は何だったの?
去年の8月に誓った想いは何だったの?
ばか。
ばかばかばかばか。
学習能力ゼロ。
私は入院が決まったとき、もう死ぬことにした。
これ以上生きていても人に迷惑かけるだけだ。
もう私はこの病気から逃れることは出来ない。
終わらせるんだ。
何もかも。
そう思った。

2003年4月25日。
私は自分の死後の簡単な連絡事項と、謝罪の言葉を書き残して大量の薬を飲んだ。
この日付は私にとって特別な日だった。
この日でなければばらばかった。
入院の日も迫っていた。


私は5日間、生死の境を彷徨っていたようだ。
心停止は3回あったそうだ。
そのたびに両親は呼び出されたようだ。
母は仕事帰りに、今日は意識が戻っていないか、せめて何か反応は無いか、と病院に通っていたそうだ。
私はつねっても針を刺しても何の反応もなかったそうだ。
医者は近いうちに死亡するか、運が悪ければ一生このまま植物状態が続くでしょう、と言ったそうだ。

しかし、私はなんて丈夫なんでしょう。
もしくは運が良いのか。
6日目にぽかりと何の前兆も無く目を開けた。
その瞬間のことをよく覚えている。
”ああ、いつもの精神病院に入院したんだっけ・・・カーテンの色、変えたんだな・・・”
と思った。
でも、すぐに全身が動かないことに気付いた。
手は拘束され、口に呼吸器をつけられ、鼻にはチューブ、両腕に点滴、右の太ももにも太い点滴に似た機械が付けられていた。
私は動く左足をバタバタさせ、手の拘束を取ろうとして暴れた。
周りの看護師さんやら医師やらが、驚いてたくさん集まってきて抑えつけられた。
そうだ・・・・・そうだった・・・・・・私は死のうとしたんだった・・・・・また生き残ったんだ・・・・・
その後は記憶は曖昧だ。
5日間も眠り続けていたのに、眠剤は抜けてないようで何度も意識を失った。

何度目かに起こされた時、両親がベッド脇にいた。
父母が何と言っていたのかは忘れてしまった。
私は拘束されている手を動かして、ペンを持って動かすジェスチャーをした。
看護師さんが、すぐに紙とペンを持ってきてくれて、手の拘束を取ってくれた。
ガタガタ震える手で”ごめんなさい 私などいないほうがいいと思ったの”と書いた。
いつのまにか私の目から涙が零れ落ちていた。
母は「そんなことない。いないほうがいいなんてことなんかない。いてくれなきゃダメ」と言ってくれた。
父も「そんなこと考えるな。お前はお前でいいのだから」と言った。
私は泣き続けた。

その後の記憶も曖昧だ。
母が連絡したらしく、幼馴染2人も見舞いに来てくれたが、裏切った私を複雑な表情で見ていた記憶がある。
気がつくと、その病院の最上階の個室に移されていた。
私は薬物の大量服用により、内臓が弱っていて肺炎にかかったようだった。
感染症なので、個室に隔離されたのだった。
熱が下がらず、食欲はマイナス500という感じ。
いやにリアルでくっきりとした夢をたくさん見た。
昔に起こったことや、観た映画の内容を寸分違わず思い出したり出来た。
とても不思議な感覚だった。
その頃、ちょうど中国を中心にSARSが大流行していた時期だったので、余計に過敏になっていたようだ。
私はそれでも、2〜3日で退院出来るだろうと思っていた。
それが6日間も、この個室に閉じ込められることになっていた。
私本人には何の説明も無く、感染症なので、誰も部屋には入ってこない。
看護師さんが必要な時に来ても、マスクをして紙製のキャップをかぶって紙製の割烹着みたいなの着て
完全防備の格好なので、表情がわからなくて、とても不気味だった。
もう1人の幼馴染も見舞いに来てくれたが、この辺の記憶も曖昧だ。彼女も完全防備の格好。
ただ、母が毎日来てくれて、私が泣いて帰りたいと訴えていたことは覚えている。
母はマスクだけしていた。
感染症なのだから、病院からは出られない、と私を説得し続けた。
ここでまた中途半端にするつもりなのか、と私を叱った。
私は母に重すぎる心労をかけた。
母は家事と仕事と犬の世話と私の世話をして、どんなにか大変な毎日だったろう。
父も仕事帰りに寄ってくれ、母の気持ちも考えろ、と言った。

その個室の病室からはちょうど高台にあるうちのマンションの玄関が真正面に見えた。

私は一日の大半をたった一人で個室で過ごしていた。
本来はお金持ちの人が入るはずの個室なので、テレビは見放題だし、電話まで付いていた。
その頃、テレビはSARSと「白装束の軍団」の話題で持ちきりだった。
私は独り、テレビをぼんやり眺め、5月の陽光に輝く外の世界を見て、遠くに見える私の家の玄関を見つめていた。


うちに帰りたい。
1人は嫌だ。
こんなところに置き去りにしないで。
ねえ、誰か。
誰か返事して。
私を独りにしないで!
お願い。
誰か一緒にいて!


私は心の中で叫んだ。
そして、ハッとした。
・・・・・・・・・私、独りは嫌なんじゃん。怖いんじゃん。寂しいんじゃん・・・・・・・・・・・
1人楽になろうとして死のうとしたくせに、本当に1人にされると泣くんじゃん。
私、誰かと一緒にいたいんじゃん。
私・・・・・・・・・・生きたいんじゃん・・・・・・・・・

私はまるで幽霊になった気がした。
本当は私は死んでいて、病院の中に閉じ込められた幽霊。
生の世界を窓から眺めて、その中に戻りたいと願って恨みを残した幽霊。
帰りたいのに、もう二度と家に帰れない可哀想な幽霊。
ここにいることを認めてもらいたいのに、誰にも気付かれない見えない幽霊。
自由に楽しそうに生きている人間を羨み恨んで、それでも何も出来ない幽霊。

私は心霊現象や死後の世界は信じていない。
でも、もし本当に死んだら、こんな想いを抱えたまま永遠に存在していかなければならない幽霊になるのかも知れない。

その時、私は強烈に生きたいと願っている自分に気がついた。

私は生きたい。
生きていたい。
みんなと同じように楽しく笑って明るい陽の下で思い切り生きてみたい。


私は独り、白い病室で点滴と機械に繋がれたまま泣いていた。

















<食生活について>

私はいわゆる「普通の食生活」が出来ない。
朝食を食べないのは元々だった。朝、弱いので。
何年前か忘れたが、非常に忙しくハードな仕事をするようになってから、
真夏だったせいか、極端に食欲が落ちて、昼パン一個に帰ってから素麺とかになった。
そのうちに、1年も経つと「責任者」などをやらされるようになってから、
ますますおかしくなった。
ストレスと疲れで、全くモノを食べなくなり、そのかわり、
夜中にコンビニで買ったお菓子やパン類を大量に食べるようになった。
過食症の傾向だ。
眠剤の乱用も激しく、飲めない私がアルコールに溺れるようになった。

そして一ヶ月のインド旅行をした。
仕事は一端辞め、一ヵ月後復帰という形で。いい加減な会社だ。
インドは本来菜食主義の国。
私は相棒とインドを駆け回って元気を取り戻し、
相棒と一緒に一日三度、ちゃんと食事をし、(カレーばかりだが)
眠剤ともおさらば出来た。
しかし、帰ってから、あることに気づいた。
一ヶ月、菜食主義の国の食事に慣れていた私は肉が食べられない体質になっていたのだ。
相棒もそうだったが、何ヶ月かで戻ったらしい。
私は今でも肉類は食べられない。
食べると腹を下すか、吐くか、じんましんが出来る。
これは結構不便だ。
気がついてみると日本は肉食の国だ。
外食に出ると食べられるものは限られてしまう。
サラダか、シーフードだ。

私は仕事に復帰した。
一からやりなおしなので、もう責任者ではない。
しばらく気楽にやっていたが、人材不足で、あっという間に責任者に逆戻り。
そしてあっという間に元の私。
人材不足のせいで、仕事の重圧は更に重く、
ストレスにさらされた私は更に眠剤を乱用するようになって、アルコールに溺れ、
食事はせずに、密かにジャンクフードを過食するようになった。
ある出来事が起こり、(詳細を記す気は今は無し)、今度は完全に拒食症になった。
過食症と拒食症は紙の表裏。
どっちも根が同じでどっちにもすぐに転じる。
ハードな仕事。責任者の重圧。拒食。不眠。アルコール。
眠剤は飲んでも飲んでもラリるだけで、全く眠れない。
その頃、私はその仕事に着いたころより、20キロ以上体重が落ちていた。
後で聞いたところによると、私は非合法ヤクをやってる、という噂がたっていたらしい。
そのくらい、顔色が悪かったようだ。
しかも、目付きも尋常ではなかったようだ。
性格も悪くなった。

いろいろ揉め事があって、私は仕事を辞めた。
私は自由になった。
もう何もかも放り出していいんだ。
仕事も上司も後輩もいない。
私は自由だ。
半年、遊んで暮らした。
それから、もう責任も何も無いだろう「OL」というものをやることにした。
アルコールは止めた。元々飲める体質でないし。なのに、一晩でワイン一本空けてたことが異常だったのだ。
眠剤濫用も止めた。普通の量を飲む程度。
朝は食べず、昼はサンドイッチ。夜は普通に食べる。
半年遊んでたせいで、落ちすぎた体重も戻った。
元々太る体質なので、痩せたことは大歓迎だったのだが、病的に過ぎた。
しかし、一度足を踏み入れた病的ワールドからはなかなか抜けきれない。
今まで肉体労働で男に混じって、くわえ煙草で仕事してた私がOLの女社会に溶け込めるはずがなかった。
再び過食症が顔を出す。
でも毎日ではない。
時々。
腹もすいてないのに、無性に何か食べたくなってジャンクフードを嫌というほど食べてしまう。
家族にも友人にも当時の恋人にも言わなかった。言えなかった。

ある事件が起こり、(詳細を記す気は無い)私は最初の自殺未遂事件を起こす。
何もかも失くした。
でも、両親と幼馴染だけはいてくれた。
その後、何度も自殺を図り、精神病院にも何度か入院し、私は壊れたまま。
紆余曲折あったが、話を戻すと、今は食欲を感じることは無い。
空腹を感じることはあっても、食べると必ず吐き気を催すことはわかってるので食べたくない。
ひきこもり生活をしているので、昼の間は何も食べない。
夜は母の手前、一応食べるが少量。すぐに胃薬を飲む。
一日一回の食事。
今でもたまに過食の気が出るが、胃が小さくなってるので、食べてもパン3個くらいで収まる。
私には普通の食生活は出来ない。
する気も無い。
何を食べても味がしないのだ。
肉は食べられないし、好き嫌いが激しいので、親しい人以外と食事をするのは苦痛でしかない。
ひきこもりなので、他人と食事する機会も無いからいいけど。
私の「異質な生き物」の一面。食生活の話でした。





















<リストカット>

私はリストカッター。
始まったのは17歳の頃だったと思う。
あまりその手の知識を収集してなかったので、
手首を切れば死ぬものだと思っていたのだ。
だが、死ぬわけは無い。
手首の傷で死ぬには相当深く切らなければならないし、
水につけてかなりの時間が経ち、出血多量で死に至るものだ。

リストカッターは大体が死ぬことを目的としていない。
血を見るとホッとする、とか
切ることにカタルシスを求めている、とか、
自分がこれだけ苦しいんだ、という自己主張であったりする。

私の場合、高校生の頃はそんなに激化することはなく、
忙しい日常と非日常を駆けずり回っていた。
顕著になったのは、ある仕事をしていた時だ。
その頃は狂っていた。
仕事に夢中で、大げさに言えば命かけてやっていた。
まあ、命に危険があるような職場だったのだが。
仕事が忙しすぎて休みもろくに取れず、しかも「責任者」をしていた。
不眠症は激しく、一日に1,2時間しか寝ていなかった。
その頃、眠剤漬けで頭もおかしかった。
家に帰って疲れ果ててるのに眠れない。
何錠追加してもラリるばかりで眠れない。
それで、無意識に手首を切っていた。
同僚には猫と遊んでいて引っ掻かれたと言い訳していた。

二度目に激化したのは、その仕事を辞めて、
普通のOLになった頃だ。
その頃の彼氏だった人も忙しくてなかなか会えない日が続いていた。
私はやはり不眠症に悩まされ続けていて、始終狂っていた。
彼と会えない日を数えて腕を切っていた。
親にはばれないように二の腕を切っていた。
腕はたちまちボンレスハム状態になっていった。
彼氏はさぞ怖かったろうね。

三度目に激化したのは、その彼とも壮絶に別れ、
また別の職についていた時だった。
それはこのHPの日記にも登場してくる。
やはり不眠症は酷く、昼に働いてき、夜はネットを放浪する。
体力が続かなくて、昼の仕事はミスを許されない肉体労働だったので、
目を覚ますために、やはり普通には見えない箇所の二の腕を切りながら仕事をしていた。
仕事の辛さ、彼氏と別れた寂しさ、孤独の重さ、社会と折り合いの付けられない私の存在。
そんな幾つもの理由から切り続けた。
二の腕だけでなく、洋服を着ていれば見えない体にも及んできていた。
私は決して誰にもリスカを気取られないようにしていた。

リストカットを止めた理由は幼馴染にある。
ある夏、みんなで海に行こうと計画が立った。
私はハッとした。
水着になれば私の腕、体の傷痕がみんなの目に触れる。
どうすればいいだろう。
なんとか言って私だけ海に行かないことにするか。
しかし、幼馴染の中の一人が、今年は川でバーベキューにしよう、と言いだした。
何故、彼女はそんなことを言いだしたのだろう。
彼女は私の体の傷のことを知っていたのだろうか。
彼女は何も言わないからわからない。
私ももちろん聞かない。

それから、私はリスカを止める決心をした。
来年の夏にはみんなで、この優しい幼馴染達と海にいける身体になろうと。

リスカは自分に傷をつける。
でも、同時に見たものに同じだけの傷を与える。
私は生きているだけで罪を犯しているのに、これ以上誰も傷つけたくは無い。

でも、一部の「リスカ自慢」の人々は置いといて、
リスカをする人のことを否定しない。
彼らは「苦しい、助けて」とSOSを発しているのだ。
私は同じ病根を持つものとして、彼らを肯定する。
そして、出来ることならその傷を同じように感じて痛みを少しでも担ってあげたいと思う。


コレを書いて数日後から、またリストカットが激化した。
予感はあったのだ。
だから、予防線を張って「もうしない」と決意したのだ。
なのに、あっさりと、それはあっさりと誓いは破られた。
また私の手首は傷だらけ。
私ってこういう人間。
いとも簡単に前言を翻す。
なんという弱い意志。
なんという穢れた魂。
なんという醜い傷痕。
最低最悪だ、私は。
















<目覚め>

私はかなり幼い頃からの記憶を持っている。
一番最初の記憶は一歳半の時のことだ。
それは、社宅である団地から一軒家に引っ越したその日のこと。
父が記念に写真を撮ろうとして、私を家の前に立たせて三脚に載せたカメラに戻って
シャッターを切ろうとするのだが、私は父の後をついていってしまうので、写真が撮れない。
それを何度も繰り返していた。
私は何故父が私の傍を離れて行ってしまうのかわからなくて、
父の後を追ってしまうのだ。
私は幼い頃から中学一年生まで完全な「パパっ子」だった。
世界で一番父が好きで「大人になったらパパのお嫁さんになるの」と言う女の子だったのだ。
中学一年生で「事件」が起きるまでは。
その話はしたくないので、これは終わり。

私は「目覚め」た時の記憶がある。
それは小学校3年生の夏休み。
お昼時。
母は台所でお昼ご飯の支度をしていた。
私はテレビを見ながら一人で遊んでいた。
そこで、急激に腹痛が私を襲った。
私は声も出なくて、床に倒れこんでお腹を押さえた。
ママ、助けて、お腹が痛いの。
そう言いたかったけど、痛すぎて何も言えなかった。
痛み、苦しみ、七転八倒していたけど、
台所にいる母は気づかなかった。

その時。
私は気付いたのだ。
生まれて初めて気づいたのだ。

「私とママは違う人間なんだ。だから、ママは私の痛みに気づかない」

私は一人なんだ。
一人の人間なんだ。
ママも一人の人間なんだ。
私とママは別の人間なんだ。
だから、もしママが、或いは誰か友達が痛い思いをしていても私にはわからないんだ。
みんな、世界中の人は「別々の独りだけの人間」なんだ。

これが、私の「人間としての目覚め」の瞬間だった。














<ザ・幼馴染ーズ>

私には3人の幼馴染がいる。
私の世界最大級の親友達だ。
仮に☆、★、◎、としよう。
☆は幼稚園から高校まで一緒。しかし、口をきくようになったのは高校から。
★は中学から一緒で高校も一緒。家も当時は近かった。
◎は小学校から一緒。高校は別で、★の結婚式で再会し、
ここに「幼馴染ーズ」が結成された。
私にとって掛け替えの無い友人たちだ。
何ヶ月も会わなくても、会ってしまえば昨日も会っていたように振舞える。
この子達の前では何も取り繕うことは無い。
何度も一緒に旅行し、海外に旅に出て、恋の話に仕事の話。
何でも話してきた。
でも、私の心の闇については話したことは無い。
だけど、去年の夏の自殺失敗の時にばれた。
なぜ、こんなにまでも生きるのが苦しいのか話したことはないけれど。
それでも彼女らは、もしかしたら察してるのかもしれない。
ただ私には何も言わずに普通に接してくれてるのかも知れない。
こんな危痴害の私を見捨てずに傍に居てくれる友達。
掛け替えの無い友達。
だからこそ、私は彼女らの前から消えようと思ってしまっている。
彼女らには幸せになってもらいたいから。
私のような虚弱な危痴害に振り回されてほしくないから。
私、また間違ってるかな・・・。


これを書いてから週数間後、彼女らと連絡を取る事にした。
「迷惑なんていう仲なのか、あたしらは」
というような内容のメルをもらったからだ。
私は泣いた。
やっぱり寂しかった。
「永遠」という名に近いこの親友達を失いたくなかったのだ。
でも、きっとまた彼女らを傷つけることになるだろう。
私はそれが怖い。











<暗示>

私は暗示にかかりやすい。
私の場合、書物から受ける影響は大きい。
基本的に破滅的なものが好きだ。
マニアックなものが好きだ。
宗教本やらドラッグに関するもの、危ない思想に関するもの、破滅的ストーリーの小説が好きだ。
そんなものを十代の頃から読み漁り、今のビョーキな私が作られてきた。
私は持って生まれた破滅的傾向に忠実に生きてきた。
何がそんなに私を惹きつけるのだろう。
破滅的傾向からすると、私の人生の末路は自殺か発狂しかありえない。
私の人生の中にハッピーエンドは無い。
私の心の本質の部分がそれを求めている。





<愛の記憶>

「愛」について語ることは私にとってあまりにもキツイ。
でも、気が向いたから少し書いてみよう。
ここでは「愛」は「恋愛」です。
私は「恋愛」について書かれているHPを読むのが大嫌いだ。
だってばかみたいだもん。
何故そんな「2人」だけのこと、公表しなくちゃいけないんだ?
まあいいけど。
嫌なら読まなきゃいいんだものね。
きっと私が「恋愛」モノHPが嫌いなのは嫉妬してるからなんでしょう。
私にはあまりにも関係ないことだからね。
「恋愛感情」は、私にとっては「過去」に過ぎない。
私はこの先「恋愛」をすることはないでしょう。
それはもう過ぎ去ってしまったものなのだ。
それはもう戻らない。
永遠に失われてしまった。と思われる。
いや、最初から私に「恋愛」の才能は無かったんだろうね。
人を愛する才能が無いんだろうね。
私が愛した男はみんなダメになっていった。
男たちは私の情緒不安定に振り回され、狂気に圧倒され、表面の穏やかさに戸惑った。
みんな・・・ダメになっていった。
私はそれがわかっていたから、彼らから離れようとしたけどうまくいかなかった。
彼らは私の闇に惹かれ、自分がその闇を独占しようとしていた。
でも、私の闇は私のものでしかありえない。
男の独占欲は、そのうちに私を傷付けるようになった。
私は逃げるしかなかった。
それ以上、傷付けられる前に。それ以上、狂わせないために。
私の狂気を受け止められた人は一人しかいなかった。
最初は信じなかった。
いずれ、この人もダメになっていってしまうだろうと思っていた。
でも彼は強い人だった。
私は、彼と長いこと一緒にいて、この人なら信じてもいいのかもしれないと思い始めていた。
彼は私が今までの人生の中で失ってきたものを補ってあまりあるものを私に与えてくれた。
でも、私には才能がなかったのだ。
人を愛する才能が。
やはり、また私が彼を追い詰めた。
年月と共に、ますます成長していく私の狂気は彼の手に余ってきた。
そして、私は息をするのに精一杯で、彼自身の闇に気づかなかった。
彼は去った。
彼は壊れた。
私は人を思いやる心が欠けている罪で、自分を死刑に処した。
私の愛し方はいつでも歪んでいた。
2001年1月8日。
写真の中の私は笑っている。
ピカピカの笑顔だ。愛されていると実感している女の顔だ。
あの笑顔を取り戻すことは永遠に無い。

思ったとおり、わけのわからない文章になってしまった。
まあいいや。
誰も他人の真実の愛などわかるわけはない。
何もかも自己満足の自分好きの悲劇のヒロインだ。
滑稽だな。







<2002年8月の死>

私は黙って死ねば良かったのだ。
なのに、私は私の抱えた苦しみを他の人々にもわけてしまった。
HPに遺書なんて自己陶酔なものを残し、何人かの人にサヨナラのメールを送ってしまった。
大馬鹿だった。
やはり一人で死ぬのは寂しかったのか、怖かったのか。

意識が戻ったとき、真っ暗で目が見えなくて、自分で息が出来なくて、体中に管がついていた。
おまけに手をベッドに縛られていた。勝手に管をぬかないようにするためだろう。
鼻と口に付けられている管が苦しくて、喉が焼け付くように痛かった。
猛烈に喉が渇いていて、しかし動けない。声も出せない。
地獄かと思った。
自分の体の苦しみを誰にも伝えられない恐怖。
真っ暗闇にたった一人取り残されて、痛みと苦しみと渇きに永遠に耐え抜かねばならない恐怖。
逃げ出そうとして、ベッドの上で渾身の力で暴れて縛られていた片方の手をやっと抜かした。
口の管を抜こうとした瞬間に看護士さんに見つかって、更にきつく縛られた。
目が良く見えない私には、看護士は地獄の番人に思えた。
看護士さんは何か言っていたが、私には理解出来なかった。
気を失い、また意識を取り戻すと手を抜こうとして暴れだす。
私にもう体力は無いはずなのに、恐怖のあまりに暴れ続けていたようだ。
何時間か後、自分が何をしたのかようやく思い出した頃、担当医が来てくれて、口の管を抜いてくれた。
それは、まるで蛇の妖怪みたいに長かった。ぞっとした。自分で抜いてたらどうなっていただろうか。
私は三日間、意識不明だったと後で聞いた。
生死の境を彷徨っていたが、母が叫ぶように呼びかけると指が動いたと言っていた。

その間に母方の祖母が亡くなった。
私が意識を取り戻した連絡と祖母が亡くなったという連絡は、ほとんど同時に家に入ったらしい。
ちょっと、不思議な符号。

私は幼馴染四人だけのHPをもう一つ持っている。
そこにも、サヨナラのメッセージを書いていた。
奥のページにある私の日記に。
例え、親友でもきっとそんなもの読んでないと思っていた。
しかし、いち早くそのメッセージに気付いた友人は、私の家の近くの救急病院に電話をかけまくり、
私のかつぎこまれた病院を探し出した。
三人は駆けつけてくれたが、家族以外は面会謝絶だったらしい。
三人は、自分勝手に友人を見捨てて一人だけ楽になろうとした私のために祈ってくれた。

家族は皆、祖母の葬式に行っていて、誰も私のところにはいなかった。
何日か後、大部屋に移った私は面会時間に一人になるのが寂しくて布団にもぐりこんでいた。
そこへ、幼馴染三人は来てくれた。やっと入れてくれたらしい。
私はずっと一人で自殺に失敗したことについて考えていた。
もう一度死のうか。もっと確実な方法は無いか。
そんなときに友人三人は現れた。
泣くか怒るかどっちにしようって言ってたんだよ、と言って友人は泣いた。
おおげさじゃない。ばかみたいだけど、本当にそのとき天使が現れたのかと思ったんだ。

私は、その時生きねばならないのだ、と思った。
人を傷つけた罪を背負い、苦しみの罰を受けて、それでも、泣いてくれた人のために笑って生きていけるようにならねばならない。

私はもう以前のようには笑えない。
確実に私の中で何かが死んだ。
過去は殺せなかったが、私の中の何か、大切だったはずのものが死んだ。
それは、「夢」とか「希望」とかいうものかもしれない。
もう生き返りはしない。
でも、生きなくてはならない私には「未来」はある。
良くも悪くも。