《村上春樹》
1949年 兵庫県生まれ
ぴゃんきっしゅにとって最も思い入れのある作家さん。
高校生のとき、太宰治よりも住井すゑよりも
ドフトエフスキーよりも中原中也よりも影響を受けた。
村上作品によって生きようとも思ったし、死のうとも思った。
さらりと読んでしまえば、あっそ、で終わってしまう。
しかし、本当の文学というものは行間にあるものを想像して感じとって考えていけるものでしょう。
村上春樹は一見、青春小説や恋愛小説にも読めるが、実は人生の謎を解く道標のような本だと思っている。
何も言わない登場人物の気持ちや考えていること、
でしゃばってこない作者の伝えようとしてること、すべて行間に詰まってます。
感じようと思わなければ、すべては指の間からこぼれていってしまうんです。
「風の歌を聴け」
物語・・・・・・・・夏休み、海の有る街に帰省している「僕」。
友達の「鼠」、バーの主人「ジェイ」、左手の小指の無い女の子、
夏は気だるく、ビールと共に流れて行く。
一つ季節を通り過ぎると、一つ何かを失っていく。
彼に得られるものはあるのだろうか?
ぴゃん・・・・・・村上春樹のデビュー作。
これを読まずに村上作品を語って欲しくない。ゞ( ̄ー ̄*)
しかし、この作品を新人賞に出すこの人もスゴイ感覚。
これには色んなモノが詰まっている。
若さというものの痛み、夏の喪失感、人を愛したり、大切に思うことのやり切れなさ。
人生で一番大事な時期のきらめき、のようなもの。
それこそ、行間にきらきらといっぱい隠れているのだ。
指の無い女の子は「直子」や「緑」の原型が見え隠れしている。
・・・いつ読んでも胸が痛むゼ。
ところで、この作品は村上作品で唯一映画化されているもの。
大森一樹監督談:「その後、一度も映画化を許してないところをみると、
よっぽど腹をたてたのかも」
しかし、エッセイで大森氏の海の散歩についての話を書いてたので
それほどは怒ってないんじゃないかな。
「1973年のピンボール」
物語・・・・・・・・「僕」と「鼠」の1973年。
二人は遠く隔たったそれぞれの地で、深い喪失感とかきたてられる渇望と
向き合って生きていた。「僕」はふと思いついたように双子と同棲するようになり、
何故か昔夢中になったピンボールの幻想を追う。
「鼠」は一人の女への思いに溺れ、その気持ちを持て余している。
二人は一つの時代の終わりを感じ、どこへむかうべきなのか。
ぴゃん・・・・・・どうも、とりとめのない話で最初は好きになれなかった。
二人の気持ちがわからなかったし、ピンボールって何?て感じだった。
でも、村上氏も気に入っていたようだが、双子の姉妹の奇妙さにひかれた。
この双子こそ何を考えているのか全く判らない。
配電盤の葬式をするし、コーヒークリームビスケット好きだし、
かわりばんこに喋るし、服持ってないし・・・。
しかも、作者は一向に説明をしない。
「俺の気持ちは音楽で聴いてくれ!」というロックミュージシャンみたいに
言葉による説明は一切無し。( ̄*ー ̄)ニヤリッ
ただ淡々と人物の視線を追っていく。
読者は彼らの見ているだろうモノを想像し、感じとっていくのだ。
それに始めて気付いてこの本を毎日読んだ。
それで、村上ゲキマニアとなったのだあ。
(私は村上研究本を一切読まん!人の解説するムラカミはキライ)