電車の中はデンジャラスゾーン。
不特定多数の人間が現代社会の過剰なストレスを沸々と心の中に煮えたぎらせて黙って密集する空間。
何か少しのキッカケで人間共の闇黒な悪意が爆発する。
その日も電車は混んでいた。
仕事に疲れ、人間関係に疲れ、生活に疲れた人々は一様に灰色な表情を浮かべて満員電車に耐えていた。
ただひたすら一刻も早く家に帰り着くことだけを考えて。
世のリーマンのおっさんどもも、家庭が冷え切っていかに家族に邪魔者扱いされていようとも早く家に帰りたい。
私も家に帰りたい。
閉所恐怖症の視線恐怖の被害妄想の精神障害者のキチガイの私には満員電車は地獄の空間。そこは人間生ゴミ集積場以外の何物でもない。
まとめて燃やしてしまえ、と呪いつつも我慢して家路に着く。
みんなだって我慢しているんだ。私だけではない。みんな苦しいのだ。誰だって嫌なんだ。自己暗示の世界。性善説を信じるのだ。
しかし事件は起こる。当然のごとく起こるのだ。この世界はトラブルのスクランブル交差点だ。
駅につくごとにますます混んでゆく車内。
私は女にしては少しだけ背が高い。普通のおっさんならば、ほとんど目線が同じか見下ろすくらいだ。
押され押されて、目の前に汚い禿げオヤジの脂ぎった頭があった。
人は年を取る。それは当たり前のことだ。禿げているのも、脂ぎっているのも、オヤジ臭いのもソヤツのせいではない。時間の経過のせいだ。
だが、だからといって嫌なものは嫌だ。汚いもんは汚い。
私は満員電車の中で、姿勢を変えてそのおっさんに背を向けようとした。
電車の揺れに合わせて、他人に迷惑をかけないようにさりげなく姿勢を変えたつもりだったのだが、うまくいかずにそのおっさんを肩で押してしまったようだ。
「押すんじゃねえよ。チッ」
おっさんはきっと何か会社で嫌な事でもあったのだろう。思わず心の呟きが声に出てしまったようだ。
それは小さな声であったが、誰もが黙っている満員電車の中では大声で喋っているのと変わりない。
「あ?なんか言ったか?コラ、おっさん」
ん?なんだ、この声は。私の声に似ているようだ。うん。私が言ったんだ。ヤバイ。キレモードの導火線に点火されてしまったようだ。
禿げ脂おっさんは凶悪な目を私に向けた。私の見た目は本質のエキセントリックさに比べて、あまりにも「普通」だ。「普通で目立たない」を絵に描いたようなものだ。
その「普通の女」が暴言を吐いたので驚いたのだろうが、それを表面に出さないように顔の筋肉がぴくぴくしているのがわかる。
「お、押すなって言ったんだよ」
おっさん、どもってますゼ。
「混んでるんだからしょうがないでしょう。押したくて押したんじゃないですよ」
少しは私も自分を抑えて礼儀正しく言い直した。女の子が汚い言葉を使うんじゃありません。
「押すなって言ってんだよ。ちくしょうめ」
おっさんは苛ただしげにそっぽを向いて言った。
ちくしょうめ?なんと言いやがりましたか?おっさんよ?私は一応敬語で返事しましたよね?ソレに対して、ちくしょうめ? ブチ。キレモード発動。
「なんだとゴルァァアア!!! てめえ何様のつもりジャァァァアア!!! 表出ろ!こんのクソオヤジがヨォォオオ!!!」
あーあ。やっちゃった。しかも、私ったらおっさんの襟首つかんでるよ。多分、目つきも相当ヤバイことになってんだろうなあ。
おっさん、唐突にキレられてびびってるよ。しかも女に襟首つかまれるなんて経験したことないだろうなあ。
「お、おま、お前みたいなやつに、そ、そんな、そんなこと言われる、す、筋合い・・・・」
おっさんも顔真っ赤にして、怒ってるんだか恥ずかしいんだか屈辱だったのか。
「ああ!? なんだって!? 聞こえないね!! もう一度言ってみやがれ!! オイコラ、おっさん!! ああ!? 日本語喋れんのかよ!?」
この後、満員電車内で大乱闘。周りの人が笑いながら、私を羽交い絞めにしてました。「まあまあ、ねえちゃん、抑えて抑えて」とか言われながら。
次の駅で降りてからの、私とおっさんと駅員さんとの攻防戦の経緯は、はぶきます。
私はですね。
普段、表面はとても温厚なのです。本当です。人様に対して怒ったり暴言吐いたりすることはほとんどない。
ムカつくことがあっても嫌なことがあっても黙って内に秘めるタイプの人間だ。
しかもわりとトロイものだから、後から「あれは怒っても良かったかも」とか思うくらいなのだ。
他人に対して悪意を向けるくらいなら、自分が死ねと思っている。
私は何回か精神病院に入退院を繰り返しているキチガイだけれども、私が我を失くすまで取り乱したところを見たものは少ない。
ただこのときは非常に疲れていたのだ。
東京という汚い街に、この世界という汚いものに、人間という不可解なものに。そして世間に馴染めない自分にも。
人はその「普通」という仮面の下に、どんな感情を秘めているのかわからない。
爽やかな、もしくはかわいい、その笑顔のペルソナの下にドロドロした猥雑なモノを誰もが持っている。
そして、何かの小さいきっかけでそれが噴出してしまうことがあるのだ。どのような現れ方をするかは人によって違う。
電車という密閉された空間。
そこは人間という名の生ゴミが、他人には絶対にわからない感情を渦巻かせて密集している静寂のデンジャラスゾーン。
警告する。人間という生きモノには気をつけるんだ、アミーゴ。それは地球上で最も危険で最も理解できない生きモノだ。特に「密室」という特殊空間では。
私は「自分」という危険な生きモノが悪意を剥きだしにして、人様を傷つけないようにナイフを持ち歩いてるゼ。
もちろん、自分を抹殺するためにな。
(2005年1月現在 親に取り上げられています)
モドル イッコモドル