「メトロポリス」
私は地下鉄に乗っていた。
地下鉄に乗るなんて何年ぶりだろう。
昼間なので人は少ない。まばらにサラリーマンやOL風の人々が乗っている。
昔の記憶を頼りに乗り継ぐ。
ああ、そうだった。ここの乗り換えは長い長いエスカレータを上っていくんだった。
ああ、そう。この路線は電車の中が狭いんだった。そうそう、少しだけ地上に出るところがあるんだった。そうだった。
目的地の駅に着き、階段を上がって地上に出る。
眩しい光。行き交う人々。ビルの森。渋滞した広い車道。
一瞬、足がすくんでしまったが、ビルの合間の紅葉した木々を見てホッとする。
予定の時間より、大分早くに着いてしまった。とにかく行くべき場所を探しておこう。
地図を頼りに歩く。
私は左右の感覚が欠けているので、少し迷ったが、ちゃんと見つけた。
周りを見回して、安いコーヒーショップがあったので、そこで時間を潰すことにした。
オープンカフェになっていたので、外に席を取ってコーヒーを買いに行った。
寒いし、緊張をほぐすために熱いカフェオレにした。カフェオレと灰皿を持って席に着く。
周りはスーツを着たサラリーマンの男達ばかりだ。食後の一時。午後の仕事の前の一服。
カフェオレを飲んで、煙草に火を点けた。
指が震えていることに気がついた。
全身が緊張のために、ガチガチに固まっている。肩と背中が痛い。
大丈夫。
大丈夫だから。私はもう大丈夫。何でもない。私は平気。私は普通の人間に見えるから。大丈夫。
そう言い聞かせて、足を組んで肩をほぐすために首を回した。
浮いてない? 私、ヘンな人に見えてないかしら。
大丈夫だったら。誰も私のことなんて見てないから。
震える指で、煙草を吸い、カフェオレを飲んだ。
夕方、門限を過ぎて病院に戻った。
先生は待っていてくれたらしくて、私が戻るとすぐに診察室に呼んだ。
「どうでしたか。会社の面接は」
「はい、なんとか気に入ってもらえて面接官の人と世間話までしちゃいました。
来週から来て下さいって。面接、受かりました。仕事、見つかりました」
「よかったですね。すごい進歩じゃないですか」
「じゃあ、退院していいんですよね?」
先生は少し考えるように、黙って私を見た。
医者が患者を診る目。観察する目。その視線はキライ。私は珍しい生きモノじゃないったら。
「だって、ここからじゃ都心に遠すぎるし、仕事見つかったら退院していいって言ったじゃないですか。
私、もう雑誌ですぐに入居出来るアパート探してあるんです。礼金も敷金も要らない会員制のとこ」
まだ先生は考えるようにして、カルテに何事か書き付けていた。医者というのは、なんでこう無表情なのだろう。
「私、もう大丈夫です。1人で電車にだって乗れるし、普通の人と話も出来たし、仕事だって見つかったんですから」
「仕事が落ち着くまで、ここから通勤したっていいんじゃないですか」
「だから、遠すぎるんです。満員電車に長時間乗ってるのは、私だってまだ耐えられません。
それに、私が精神病院に入ってることがバレてしまう」
「精神病院にいることが恥ずかしいことですか」
「・・・・・・・・恥ずかしいって言うか・・・・・・私はそりゃキチガイです。わかってます。でも・・・・・」
「あなたは『キチガイ』なんかじゃありません。自分のことをそういうふうに言うものじゃありませんよ」
私は黙った。
先生にはわからない。私はキチガイなのだ。なんのかんの理屈を並べてもキチガイであることには変わりない。事実なのだ。
自分が一番よく知っている。
精神病者。精神障害者。精神異常者。わかってるわかってるわかっているの。
みんなが、世間の人々がどんな目で私を見ているのか嫌と言うほどわかっている。知っている。
散々言われてきたし、差別されてきた。同情してくれたって、誰もが心の中で私を怖がっていた。軽蔑していた。
私は精神病院に閉じ込められて、自分をコントロールできるように努力してきたんだ。精一杯頑張ったんだ。
だから、私はもうここから出たい。「普通」の人のように生活がしたい。都会で一人暮らしをして働きたい。
ここ何ヶ月か症状は安定してるし、いつまでも親のお金に世話になってるわけにはいかないのだ。
そりゃ、アパート借りる会員料は払ってもらうことになるけれど、これからは働いて返せるのだ。
だって、私は面接に受かったんだもの。仕事が決まったんだもの。「普通」の人に見られたんだもの。
私は下を向かないように、先生の顔を見た。また負けたりしないように必死に目を見た。
先生は、そんな私の葛藤を観察して少しため息をついた。
「わかりました。いいでしょう。退院を許可します。但し、しばらくは週に一度は通院すること。いいですね?」
私はすぐに両親に連絡を取って、退院して一人暮らしをすること、仕事が見つかったことを報告した。
これで最後だから、と言って、アパートの会員料だけ借りることに了解を取った。
両親は手放しで喜んでくれた。
3年前、頭の回線がぶち切れてから、ずっと精神病院に入院しっ放しだった娘が退院することを。
ただ、やはり一人暮らしは止めて、仕事はしなくていいから田舎に帰って来い、と言った。
それじゃ、意味が無いの。私はこの東京で一人できちんと自立して働いていきたいの、普通に暮らして行きたいの。
次の日、会員制のアパートを借りる手続きをして、3年分の荷物をダンボールに纏めた。
入院仲間は皆、驚いていた。
私はこの入れ替わりの激しい精神病院で「ヌシ」のような存在だったし、
ここ何ヶ月か安定してるとは言え、私の病気の症状の激しさを知っている人も少なくない。
私は人に危害を加えることはなかったが、我を失くして暴れて叫びまくったり物を壊したり自傷行為の常習犯だったのだ。
その私が退院する。
しかも、仕事をして一人暮らしをする。
でも、みんな、「おめでとう」と言ってくれた。ナースさん達も喜んでくれた。
翌々日には、やはり田舎を離れて東京で結婚している兄が車で迎えに来てくれて退院した。
親しかった入院友達は泣いて別れを惜しんでくれた。
通院日にはお見舞いに来るからね、と言って私は笑った。
さあ、私は自由だ。もう鎖につながれることはない。檻に閉じこめられてはいないんだ。
私の新しい仕事先に近いアパートまで行き、荷物を降ろすと、兄は仕事があるから、と言って帰って行った。
「無理するなよ。何かあったら電話しろ。なんでも、と言うわけにはいかないけど、協力するからさ」
「ありがとう、アニぃ。頑張るから大丈夫」
兄が帰った後、ダンボール5箱分の荷物の整理にかかった。
3年も入院していたわりには、荷物は少ない。私は洋服や化粧品やアクセサリーなどに気を使うタチではない。
このアパートには必要最低限の家具が付いている。ベッド、クローゼット、棚、電子レンジ、小さい冷蔵庫など。
1時間ほどで片付けは終了してしまった。
外に出て、近所を散策してみようかとも思ったが、根がひきこもりな上に、
何年かぶりに、本当にたった独りになってしまった緊張で動けなくなってしまった。
誰もいない。テレビも無い。病院のようにオーディオルームも無い。ベランダも無い。
私は煙草に火を点けた。
今度からは、いちいち喫煙所に行かなくていい。好きなときに好きな場所で好きなだけ煙草を吸える。
ふと気付いた。
灰皿も無い。
仕事初日。
制服があるので、服装に気を使わなくていい。いつものようにジーンズとトレーナーで行った。
受付で臨時の入館証を貰い、案内役の40代くらいの感じのいい女性に会った。
「よろしくね。まずは制服を渡すから」
私は面接官の人に会うのかと思っていたので、新たな人に出会ってまた緊張で体がガチガチになった。
「宜しくお願いします」
と、かろうじて言えた。
女子更衣室に連れて行かれて、制服を渡された。
「背が高いわね。でも、痩せてるから・・・9号でいいかしら」
「はあ・・・多分・・・」
洋服を買ったのなんて随分前のことだから、自分のサイズも知らない。
着てみたが、スカートのウェストがぶかぶかだった。
「あら。合わないわね。でも、今7号が無いのよ。注文しておくわ。しばらくそれで我慢して。それで・・・」
と、ポケットから安全ピンを出して、私のスカートのウェストを寄せて止めてくれた。
「と。これでいいでしょ。ごめんなさいね」
そう言って笑ってくれた。
優しい。嬉しくなって、私もようやく小さく笑えた。
午前中は会社内を案内してくれて、一緒に社食でランチを食べ、午後は私のやる仕事の説明をしてくれた。
渡された書類をコンピュータに入力すること。
コピーを取ること。
ファックスを送ること。
電話を取ること。
10時から13時まで仕事。13時から14時まで昼休み。14時から18時まで仕事。午後は16時くらいに適当に休憩してもいい。
その日はそれで終わった。
私は地下鉄に乗って帰った。
疲れ果てて、コンビニで買ったシュークリームとチョコレートのお菓子でビールを飲んだ。
そう。
私は退院したんだから、もう隠れてお酒飲んだりしなくてもいい。
堂々と誰の目を気にすることなく、ビールが飲めるんだ。
お菓子だけの食事をしても、ナースさんに怒られたりしない。
嬉しいな。
一人暮らしって楽しいな。
明日もあの優しい人に教えてもらえるといいな。
私は寒いけれど、窓を開けて東京の狭い四角い空を見上げた。月は見えなかった。
次の日から、私の東京生活は本格的に始まった。
私は、用意された自分の席に座り、隣に座った人から、簡単に仕事を教えてもらい、黙々とコンピュータに入力した。
仕事中は、わからないことを聞く以外は話はしなかった。
最初に出会った面接官の人とも、制服を合わせてくれた女の人とも、もう会うことはなかった。
お昼は、周りのみんなが立ってから一人で社員食堂に行って、ランチを食べた。
その後は、喫煙所で煙草を吸い、休憩室に行ってテレビを見るか、本を読んでいた。
一緒に働いてる同じ仕事の女の子達は、聞けば親切になんでも教えてくれたが、それ以上のことは話さなかった。
私は「普通」の人と、何を話したらいいのかわかなかったので、やはり話しかけなかった。
それでも、私は楽しかった。
もう病院という檻に閉じ込められていない。
もう「精神障害者」というレッテルは見えない。
もう危痴害じゃないんだ。
私は自分で働いて、一人暮らしをしているの。
この東京で自活してる人間なの。
一ヶ月。働いてやっとお給料を貰った。
昼休みに、銀行に行ってお金を下ろしてきた。
少ないけれど、一ヶ月間自分で働いて稼いだお金。
嬉しかった。すぐに現金書留で、実家に借金返済分を送った。
何年ぶりだろう。自分で働いて貰ったお金。自分のお金。
もう冬になった青空の下、弾んだ気持ちで会社に戻った。
もう昼休みの時間も残り少ないので、休憩室には寄らずに、喫煙所へ行った。
「ねえ、あの新しく入った子、キモくない?」
女の声が聞えて、私は喫煙所に入る前の角で立ち止まった。
「ああ、あの子ね。あたしもそう思ってた」
「でしょ? 仕事教えてんだけどさ、暗くって返事されても聞えなくってさあ。参っちゃう」
甲高い笑い声。
私のこと? 私のこと噂してるの? だって、最近入ったのは私しかいない。それに、この声は隣の席の女の子だ。
私は固まって、その場に立ち尽くした。
声の主は他の話題に笑いながら、喫煙所から出てきた。
私とぱったり出会って、目が合った。やはり隣の席の女の子だ。
「あ。お疲れ様」
と、平然と言って二人は仕事場へ戻って行った。
私は動けなかった。何も言えなかった。どうしたらいいのか、どう思ったらいいのかわからなかった。
昼休みが終わったことを知らせるベルが館内放送で鳴った。
午後の仕事は捗らなかった。
隣の席の女の子は笑顔で、私に仕事を指示してくれる。
その笑顔の裏で、私のことを嫌っている。気持ち悪がっている。私の本質を見抜いて関わりたくないと思っている。
周りの風景が遠のいていった。
この世界で私はやはり異物だったのだ。
まるで溶け込めていなかったんだ。
私はいらないモノだったんだ。
だって、私はどうしたって危痴害なんだもの。
仕事が終わって独り地下鉄の駅に向かって歩いていった。
渋滞した車道。排気ガスに汚れた並木道。仕事帰りの人々。そそり立つビル群。
全てがモノトーンに見えた。
私だけ違う次元を歩いてる感覚。
やっぱり 私の 居場所は 何処にも なかったんだ
地下鉄の駅。
風が吹く。人々は暖かい場所に戻るために電車を待っている。
私に帰る場所はもう何処にもない。
みんなと同じように暖かい世界には入れなかった。
そうだね。わかってた。知ってたよ。
私の行くべき場所。私が唯一逃げられる場所。
弱い人間は自然淘汰されるべきだね。たった一言でもう心は粉々に砕け散った。修復する気力も無いよ。
ごめんね。
ちょっとだけ邪魔するね。「普通」のみなさん。
私は入ってきた地下鉄の前に飛び込んだ。
運転手と目が合った。
驚愕の表情。
私はどんな顔をしてましたか?人間の目をしてましたか?
粉々の肉片になる私を誰も許さないだろう。
モドル イッコモドル