<月の鬱>
彼女は私の学生時代からの親友だ。
同じ街で育ち、同じ学校で学んだ。
一緒に東京に出てきて、同じ大学に入った。
学部は違うけれども、同じサークルに入っていたので、たいていは一緒にいた。
就職してからも、月に2,3度は会っていた。
私達はいつでも、なんでも話してきた。
成績のことも、恋の事も、他の友人たちの辛辣な悪口も。
なんでも話して笑い飛ばしてきた。
ただ、彼女には情緒不安定なところがあった。
落ち込むととめどなく、何日か学校を休むこともあったし、
いきなり激して怒鳴りだすところもあった。
なんでもないことで泣き出して一日泣いているようなこともあった。
でも、普段の彼女は明るく、人に好かれる女の子だった。
容姿は特別美人なわけではなかったし、ちょっと太り気味だったけれど、いつでも誰かしら彼氏がいた。
そう。「誰かしら」。特定の男の子と何年も続かなかったのだ。
それは、彼女の情緒不安定さを誰も受け止め切れなかったのかもしれない。
私は、大学時代から付き合っていた人と結婚し、彼女の近くのアパートに住んでいたのだが、
引っ越してちょっと遠くなった。
結婚式には、彼女もその当時の彼氏と一緒に参加してくれて、大いに盛り上がった。
結婚生活と仕事。
私は忙しくなり、彼女ともなかなか会う機会が少なくなっていた。
メールで連絡は取っていたが、だんだんとそれも疎遠になっていった。
日常の忙しさに紛れて、私はそのことに気付かなかった。
ある日、夫に、「そういえば、彼女、どうしてるんだ?」と聞かれてはっとした。
同じ大学だったので、夫も彼女の友人だ。
メールを打ってみたが、戻ってきてしまった。
携帯に電話したが、解約したようだ。
自宅電話に掛けてみたが、「現在つかわれておりません」という機械的な女の声がするだけだった。
不安にかられて、考えてみると半年以上も彼女と連絡を取っていない。
他の友人に何人か電話を掛けて聞いてみたが、彼女と連絡を取っている者は誰もいなかった。
彼女の実家にも電話してみたが、「そういや、最近連絡ないのう。どうかしたん?」と逆に聞かれてしまった。
兄弟も多かったし、のんびりした土地柄なのだ。
次の日、彼女の勤め先に電話してみた。
若い女の声で、そういう名前のものはここにはいません、と言われた。
他の部署に移ったのですか、と聞くと、ちょっとお待ちください、と言われ、
次にもう少し年のいった感じの女性が出た。
「彼女は8ヶ月ほど前に退職しました」
と言われた。
私は愕然とした。
確か、半年前ぐらいに会った時には、そんなこと何も言ってなかった。
いつもの明るい彼女だった。
あの時にはもう会社を辞めていた?
彼女は何故、私にそのことを言わなかったのだろう?
そして、何故連絡してこない?
週末を待って、私は彼女のアパートに行ってみた。
土曜日の午前11時。
呼び鈴を鳴らしてみたが、応答は無し。
廊下の曇りガラスの窓から様子を見てみるが、わからない。
どうしようか迷った。
何処かに出かけているのだろうか?
買い物?
待ってみるか?
でもいつ帰ってくるかわからないし・・・。
しばらくドアの前で考え込んで、今度は呼びかけてみることにした。
それでいなかったら仕方ない。
出直そう。
「ねえ、あたしよ。いないの? ねえ、あたし」
ドアをドンドン叩いてみた。
中でがたん、と音がした。
ああ、やっぱりいるんだ。良かった、声をかけてみて。
がちゃがちゃ、と音がしてチェーンと鍵を外す音がした。
彼女が出てきた。
「・・・・・・・ああ、ごめんね、出なくて。誰だかわからなかったから・・・・・・・」
私は一瞬言葉が出なかった。
「・・・・・・・・・・いいのよ、別に・・・・・・・・」
と、言うのがやっとだった。
彼女は別人かと思われるほどに痩せこけていた。
あのふっくらしたバラ色の頬が、青白くげっそりと削れている。
白く柔らかそうだった腕は、棒のように細く骨が浮き出ていた。
呆然と彼女を見ていたが、やっと我に返って
「ちょっと、入ってもいい?」
と聞いた。
彼女はちょっとだけ笑みを浮かべて、黙って中に入って行った。
私も後を追って、1DKのアパートの中に入った。
中はガランとしていた。
前は彼女の好きなもので埋め尽くされていた。
お気に入りのソファ、小さめのテレビ、かわいいラグ、木製の棚、いろんな調理器具、趣味のいい食器・・・
それらが何もかも無かった。
ただ、シングルベッドがポツンとあって、それだけだった。
「どうしたの? 引越しでもするの?」
「・・・・・・・・・・お金無いから・・・・・売ったの・・・・・・・・」
彼女はかろうじて残っているマグカップとガラスのコップに水を入れて持ってきた。
「・・・・・・・・ごめんね、今水しか無くて」
「うん・・・・・なんでもいいわよ」
私達は黙って、水を少し飲んだ。
お金無いってどういうこと?
なんで仕事辞めたの?
家具売らなきゃいけないほど困ってるの?
なんでそんなに痩せちゃったの?
何かあったの?
あの彼氏はどうしたの?
なんで私に何も言ってくれなかったの?
聞きたいことがいっぱいあったが、何から聞いていいものかわからなかった。
それに、彼女は弱っていて話すことも億劫そうだった。
しばらく2人して黙っていた。
彼女は心ここにあらず、といった感じで、窓の外を眺めていた。
と言うよりも窓の方に目を向けていた、といったふうだった。
彼女の目は何も映しておらず、ただ虚空を見ているような。
様々な言葉を探したが、何も思い浮かばなかった。
「・・・・・・・・・・・痩せたね」
と、たった一言、私は呟いた。
ゆっくり、ふうっと振り返って彼女は私を見た。
私というよりは、私の声のするほうを見た、といった感じだった。
「ああ、うん、少し・・・・・・・・・」
少しじゃないよ。すごい痩せたよ。
どうして、そんなガラス玉みたいな目をするの?
それからも、何も話すことが思い浮かばずに、私達は黙って水を飲んでいた。
その重い沈黙、いや空虚な沈黙と何も無い部屋に耐えられず、私は立ち上がった。
「ねえ、お腹空かない? 外に何か食べに行こう」
彼女は床を見たまま、黙っていた。
「外、いい天気だよ。駅の近くのあのオープンカフェ行ってみようよ。気持ちいいよ。ね? そうしよう」
「・・・・・・・・・・・あたし、外に出たくないの・・・・・・・・」
私は彼女を見て少し黙った。
でも、このままじゃいけない。外に連れ出そう。きっと外の空気を吸えば、少しは違うだろう。
「いいじゃない、たまには。せっかく私が来たんだから、一緒に行こう。私、腹減ったあ」
ことさら明るく言った。
彼女の細い腕を取って立たせた。
「着替えた方がいいんじゃない? それじゃあんまりだよ」
私はクローゼットを勝手に開けた。私達はそんな遠慮の無い間柄だったのだ。
再び、私は驚いた。
あんなに洋服好きだった彼女。クローゼットの中身は空に近かった。洋服まで売ったのか。
驚きを隠して、私はその中を探してやっと、くしゃくしゃになったコットンの白いワンピースを見つけて彼女に渡した。
「ハイ。アイロンかかってないけど、取り合えず、そのパジャマよりいいでしょ」
彼女は突っ立ったまま、少し私を見たが、素直に着替えた。
駅前まで歩くのに時間がかかった。
彼女は足元さえ覚束ないのだ。私が腕を支えてやっと歩いていた。
カフェでは、私がパスタを頼んで、何も言わない彼女には野菜のサンドウィッチを頼んだ。
私は、取りとめの無い話をずっとしていた。
彼女は無表情だったが、だんだんと目に色が戻ってきて、口の端をあげるくらいの小さい笑みまで浮かべるようになった。
昔、2人で遊んだこと、学生時代の友人達の噂話、テレビの話、洋服の話・・・・
私は注意深く話した。
「何か」あったらしい彼女の地雷を踏まないように。なるべく関係ない楽しい話を。
「ねえ、少しは食べなさいよぉ。もったいないでしょ」
いつまでたっても料理に手をつけない彼女に言った。
彼女は、すでに乾いてしまったサンドウィッチをじっと眺めていた。
「痩せすぎよ。少しでいいから、食べなさーい」
彼女は私を見た。
ガラス玉のような澄んだ目だった。でも何を考えてるのかわからない目。
私はたじろいだ。彼女のそんな目つきを見たのは初めてだったのだ。
いつも輝いていた彼女の目。好奇心旺盛にキョロキョロ活発に動いていた瞳。あの頃、私を見つめた彼女の笑顔。
しばらくしてからやっと、彼女は手を伸ばして、サンドウィッチを一切れ取って口に運んだ。
「ヨシヨシ」
と、私は少し安心して、いつもの口調で普通に言って、自分のパスタを食べ始めた。
一口食べて、彼女はまじまじとサンドウィッチを見た。
「・・・・・・・・・・おいしい」
私は嬉しくなって「そうでしょう。ずっと1人でいたんでしょ。誰かと一緒だと食べ物もおいしいでしょ」と、
言いかけたとき、彼女はそのままの姿勢で椅子から倒れた。
まるでねじまき人形が壊れて動かなくなったみたいに。
サンドウィッチを持ったまま。少し笑ったこわばった顔のまま。目は開いたまま。
がったーんと大きな音をたてて、椅子が倒れた。
私は視界から彼女が消えて、何が起こったかわからなくて、動けなかった。
店員が寄ってきて、「大丈夫ですか」と聞いた。店中の客がこっちを見ている。
私は我に帰って、慌てて彼女を助け起こそうとした。
「ねえ、どうしたの? 大丈夫? ねえ、ねえ、どうしたの?」
彼女は最初ぐったりとして動かなかったが、だんだんと体が硬直し始めてガタガタ震えた。瞳が左右に小刻みに揺れている。
私はその彼女の様子に怖くて、どうして良いものかわからず、ただただ、彼女の名前を呼んで揺さぶっていた。
店員が救急車を呼んでくれた。
私は病院に付き添っていったが、彼女の身内ではないので症状について何も話してもらえなかった。
とにかく、救急外来の外のベンチでひたすら待った。
2時間ほどして、彼女はよろよろと出てきた。
私は駆け寄って、「大丈夫?」と聞いた。
「ごめんね、迷惑掛けて。大丈夫だから・・・・・・ありがとう、ごめんね・・・・・・・・」
「いいのよ。あんたこそ、本当に大丈夫なの? 医者は何だって? 何をしていたの?」
「・・・・・・・・・ん・・・・・点滴と・・・・・・・うん、栄養失調だって」
栄養失調・・・・・・・・
「ごめん。私が無理に外に連れ出したから・・・。やっぱり家でゆっくりしてれれば良かったね。
あたしが何か作ればよかったね。ごめん、ごめん、ごめんね」
私はもう泣きそうだった。一本調子で話す口調と青ざめた顔。何も説明してはくれない私の親友。
「謝らないでよ。あたしが悪いの。ありがとう・・・・・」
タクシーを拾って、2人で彼女の家に戻った。
もうすっかり日が暮れていた。
アパートに戻ると、彼女をベッドに寝かせて、お粥でも作ろうと思って台所を探った。
何も無かった。
お米も鍋も塩さえ無かった。
電子レンジもないので、レトルトパックのお粥を買ってその場で温めてもらうしかない。
「ねえ、お粥でもかってくるから待ってて」
と、私が言うと彼女は、また私をじっと見た。
「・・・・・・・・・・・・・・・ねえ、旦那がいるでしょ。もう帰ったほうがいいよ・・・・・・・・・・」
「そんなになってるあんた、放って帰れないよ」
彼女は起き上がって窓際に座った。
「ねえ、電気、消してくれる?」
私は狭いキッチンをうろつくのをやめて、彼女の言うとおりに部屋の電気を消した。
カーテンと窓を開けて、彼女は空を見上げた。
しばらく、そのまま黙っていた。
私は彼女が何を考えてるのかわからずに、ただ彼女を見ていた。
「・・・・・・・・・・・ねえ、月が綺麗。あたし、こうやってずうっと月と話していたの。月だけはいつも同じように空にいるの」
「・・・・・・・・・・・・」
「曇りや雨の日は見えないけど、でも、ずっとずっと月は夜になると、そこにいるのよ」
月の灯りに照らされた彼女は美しかった。
窓枠に頬杖をついてガラス玉のような目で空を見上げている。
長い髪。細い体。青白い肌。白いコットンのワンピース。
こんな別世界にいってしまったような彼女は見たことが無かった。
今の彼女は私の知っている彼女ではない。
もう別の人間なんだ。
私の知らないところで、彼女は変わってしまった。
儚い白い妖精のようになってしまった。月の世界からの迎えを待っているように夜空を見ている彼女。
「・・・・・・・・・・・私は大丈夫だから。あなたはもう帰って」
私は何も言えなかった。
「・・・・・・・来てくれてありがとう。迷惑掛けてごめんね・・・・・・・・・・・」
ここは彼女の世界だから、異物の私は現実の世界に帰れ、と言われたような気がした。
「・・・・・・・・・うん・・・・・・・・・」
私は帰り際、「また来るから。来週は何か食べやすいモノ、お弁当にして持ってくるから」と言った。
「ありがとう。・・・・・・・・・・・・・会いに来てくれて嬉しかった。ありがとう・・・・・・・・・・ごめんね」
彼女は薄く笑った。
彼女の葬式は、私達の故郷でひっそりと行われた。
友人達はもうみな地元にはいなかったし、自殺ということもあって家族があまり知らせなかったらしい。
寂しい葬式だった。
遺影の彼女はまだふっくらしていて、幸せそうに微笑んでいる。
私は目の焦点をぼやかして、周りを見ようとしなかった。
不思議と涙も出なかった。
彼女はもういない。
その実感が湧かなかったのかもしれない。
第一発見者はアパートの大家さん。
異臭に気付いたアパートの住人が大家さんに知らせたらしい。
私は行くと約束した日、行けなかった。
夫が熱を出して、家を出られなかったのだ。
彼女に連絡しようとも、彼女には電話が無かった。
それでも遅かっただろう。
だって、彼女は私が最後に会いに行った日の深夜に死んだんだもの。
私は彼女に何て言えばよかった?
どう行動すれば、彼女をこの世に留めておけた?
彼女の書いた遺書。
簡単な遺書。
家族にあてたものと一緒に、私へのものもあった。
遺書と言うよりはメモ書きに近い。
「最後と決めていた日に会えて嬉しかった」
それだけ。
もうあの時、彼女は決めていたのだ。
私は運命に導かれるまま、会いに行ったのに、彼女の死を止めることは出来なかった。
何も気付いて上げられなかった。
彼女のガラス玉のような目に生の輝きを取りもどしてあげることが出来なかった。
その決断を翻させるようなこと、何もしてあげられなかった。
彼女の心の血の叫びを聞いて上げられなかった。
私は何を思えばいい?
どうすればよかった?
ねえ、なんて言えばよかった?
線香の香りが立ち込める。
彼女は何もかも独りで抱え込んで灰になる。
月光は彼女を連れて行ってしまった。
モドル イッコモドル